昭和51年12月26日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
四神様は、「大海のような信心をせよ」と仰せられてあります。大海のような信心をすれば鯨が棲もうがと。竹の筒にボウフラが湧く様な信心ではつまらぬ。竹の筒に水が溜まった様な小さい信心ではね、せいぜいボウフラが湧くくらいな事だと。そこでよしそんなら大海のような信心をさせて貰おうと言うただけで、大海のような鯨の棲むようなおかげが頂けると言う事ではありません。信心は大きな信心が良い。
と言うて大きな事ばかり言うたり思うたり、又願うたりしたからと言うて大きな信心ではありません。やはり小さいところから一歩一歩ね、一段一段、段々大きくなっていくという信心。しかも大きくなれれる信心でなからなければいけんのです。限りなく大きくなれれる信心を目指さなければいけません。ただおかげをおかげをと言うてもね。ただ最短距離だけを願う人がある。
お徳さえ頂けばいいでしょうと言った様な事。そのお徳がそんなに簡単に頂けるとは思われない。お徳と言うのは、結局は自分自身が拝めれる様になる度合いが、深うなっていくと言う事なんですから。お徳と言うのは自分で自分の心が拝めれる。自分自身の心が拝めずして他が拝めるはずはありません。いうならば信心は有り難くならせて頂く稽古です。偉くなるとか賢くなるという事ではない。
その有り難うならせて頂く稽古が、一辺に有り難くなるとは思われません。信心も手習いも同じ事。一段一段上がっていくのだと仰います。本当の信心の喜びというものは、そんなに一遍に頂けるものではありません。それは思いもかけないおかげを頂いて、まぁ言うなら奇跡的なおかげを頂いて、あぁやれ嬉や有り難やと、涙を流して喜んでおる人もありますけれども、それはつかの間の喜びです。
昨日マルショウの感謝の夕べ、六時からちょうど私がここへ、一、二十分ちょっと座っております間に、ちょうど次々とお参りする方達のお届けの中から、福岡の後藤さんですね野中さんの娘さん二、人の子供がおります。二人の子供が遊んでおったところが、大きなあのうガラスの中に二人一緒に倒れ込んで、そのガラスの中に倒れ込んで、ガラスが粉微塵に割れたと言う事です。それで本当にもうガラスの破片を一杯身体には、ほんなら髪の毛はこう切れてるんだそうです。それにかすり傷一つしてなかった。
もう広大なおかげを頂いてと言うて、それこそ涙ながらに母親がお届けしております。だからそういう場合に信心しておる、まぁ信心がないならあぁ良かった腑が良かったと言うところでしょうけれども。信心があればやっぱり神様の御守護を受けておって、本当に、おかげ頂いて有難いと思うから、それが有り難いが一遍に募ってくるわけです。ですからそういう有り難さならば誰でも、まぁそういう奇跡的なおかげを頂けば有り難いと思いますよね。不思議な不思議な光を求めずにね。
何でもない光の中から、本当に光が分からなければいけない。霊光というよりも神の光を分かるようにならなければいけない。いやその何でもないそれこそが第一実は奇跡なのである。今日も無事であった。今日も例えばほんなら後藤さんの場合は、一家中が二人の子供もおかげを頂いて、もうそれこそ平穏無事におかげを頂いた。そういうおかげの中におかげを実感出来れる信心を、言うのです真に有り難いというのは。そういう有り難いのが募りに募って、段々大きくなっていくと言うのですから。
信心修行と言うのはね、そんなに簡単に有り難くなれるとは思われません。ただし私が昨日のマルショウの、まぁ感謝の夕べに併せて頂いてから思うのですけれども。本当にこの子達がね、こういう若さで信心を頂いて行く。そしてこれから二十年たち、三十年たちしていくうちにです、教会の芯とも柱ともなるだろう。この中から総代幹部ね、いわば教団のためにも、お役に立つ人達も出来るだろう。道の教師のお取立て頂く様な子供もおるかも知れない。
そしていよいよ世界真の平和を祈らせてもらい、世界に和賀心時代を広げて行こうと言う様な意欲に燃え立ってゆく人達も、育たなければならない。本当に子は宝と言うがね。信心を頂くあの子供達の姿は、もうまさに世の宝だと私は昨日は実感した。私が十一、二歳だったと思うんですけれども、親先生が学院から帰られて当初の頃、今の総代をしておられます岸先生。もう七十ですかね今は。ですから五、六十年も前の話です。
私が岸先生よりも七つ少ないから、岸先生がまぁ十八であったとするならば、私は十一だったという事になります。とにかく十一、二だったと思います。でその頃は子供会と言うておった。子供会に出らせて頂いて、ちょうどお昼休みに私共は三々五々、あそこの広場で遊んでおった。そしたら玄関の入り口の所に今のあれですね。昔のもんじゃなくて一段高くて、こちらが手洗い場になっておるそこの上がり框の所に、その岸先生と親先生が当時の若先生がお掛けになって、何か信心話をしておられた。
私は聞くともなしに横に立って聞いておったら、岸先生が先生に「若先生、何人という事は要りませんよ。本当な信者ば一人育てて下さい。」と言う話が私の耳に入ってきた。そん時に私は今でもそん時の感動を忘れられませんけれども「その本当の信者と言うのに私がなろう」とこう思うたです子供心に。もう感動が湧いて感動が湧いて、そうしてこちらにみかん畑がありましたが、みかん畑に入ってからもう人に見られたら可笑しいもんですから泣いた記憶があります。
そうしてほんなら五十年。五十年たちましてほんなら今日の信心があるわけです。今合楽の信心は完璧の域に入ったと言われます。いうなら真の信心を五十年間、求めに求め様々な苦労もし修行もさせて貰い、良いとこ悪いところ楽なところ、楽でないところ様々なところを通らせて頂いて、ようやくこのくらいです。その中には様々な信心もありました。水をかぶったり断食をしたり。又はそれとは反対にドライな信心の時代もあった。ひっくるめてみてです、ようやく私がここまで到達させて貰うた。
辿らせて頂いたと言う事をです、皆さんに聞いて頂いておりますから。いかにも今の合楽の信心を皆さんが、例えばマスターされると言うか、それが観念の上で分かっただけでです、真の信心とは言えません。もちろん真の信心の域に入ったのであり、これからはもうそれこそ限りなくこの世あの世を通して、間違いのないこの方向というものを、間違えずに進んでいけば良いと言う事であったと言う事になります。その中にはもう様々な手探りの信心とでも申しましょうか、暗中模索の信心であった。
それでもやはり有り難くもなれたし、おかげも受けてきたし、けれどもそれが言うならば本当のおかげではなかったと言うのです。だからね四神様がおわせられるところの、大海のような信心。ほうそんな大海のような信心すりゃ、鯨の棲むようなおかげを受けられるなと。そういう事を言うたり思うたりする事が、いかにも大きな信心のように思うて、中身は空と言うのではいけんのです。その中身がぎっしり有り難いというもので、勿体無いと言うもので詰まっていかなければいけん。
信心が有り難い有り難い、そして我とわが心が拝めれる心の状態を作っていく事のためにです、いわゆる実意丁寧神信心が祈られるという事になるのです。迂闊であった本当に迂闊であったね。高度な言うなら高いところに手の届かないような信心を、ただ真の信心真の信心と言うて、言うておるだけで一生終わっていく人がどの位多いか分からない。そこに真のおかげにも会う事も出来ず、真のお徳も受ける事が出来ずして、終わっていく人がどの位あるかも分からない。
ただ続けておれば良いただ修行しておれば良い、お参りしておれば良いと言う事でもいけん。やはり目指すところは真の信心を目指して、ほんなら真の信心とはと。それがようやくほんなら合楽理念に立脚してと言う様な。私が現在の合楽では最高の一つの目標というものが出来た。だからそれをなら観念の上で分かったからと言うて出来たと言うのじゃない。その中身が実意丁寧神信心なんだ。その辺からが私は御道の信心が、世界の名教と言われるその所以というかね。
様々な方法で神様へ向うとかね、仏様へ向うとかと言うて、いわゆる求道の限りを尽くした方達は、私共の先達のなかにはどれほどあるか分からないけれども、それを本当に分かり得ずしておったという感が私は強くするんです。教祖様の教えて下さるその全てがね、和賀心を頂くためにある御教えと言うても良いくらい。いうなら真の信心の言うならば、これこそ教えだと言うて間違いはない。その教えの徹底というか、その教えを中途半端に頂いておるから、これを信じて頂く人がない。
教祖様が一つの御教えをね、確かに教祖様は嘘を教えてはおられないと言う、私共が実証者になるための修行がです必要なんです。昨日もう大変な、まぁ言うなら難儀な問題で、ちょうど夕べ感謝の夕べの始まる、一時間ばかり前に参ってきておる夫婦の方があった。まぁいわゆる年末の近づいて来よるのに、今年はどうもその年の瀬が越せない状態にある。何時も金をここに幾ら幾らばかり用意して、間に合わんからもう八方塞でどこへ行ってもその出来ないという訳です。
私は昨日こういうあの歌を詞に書いて、その方に渡しましたら、それこそ何かもうおかげ頂いたような、生き生きとした顔でそれがいかにももうお金のように、押し頂いて帰られましたんですけれどもね。「生き尽きて、なす術なしと嘆かざれ、祈れば生きる道は開けん」「生き尽きて、なす術なしと嘆かざれ、祈れば生きる道は開けん」どうにも出来ないときにね、信心させて頂く者は神様にお縋りし抜く、お祈りし抜く。もうどれが本当なのか嘘なのか分からない。けれども背に腹は変えられない。
只々一心にお縋りをする。そういう信心がです、なら真の信心と言う訳ではないけれども。私共がねそういう切実な問題に直面した時に、私共は神様にお縋りをするという信心がです。五年、十年、何十年と続かせて頂いて、ほんなら神様の間違いなさを知る事が出来るのです。分かるのです。だからそういうおかげを頂いた上にも、お互い頂いての合楽理念でなからなければ駄目なんです。神様のとにかくこの神様は祈ればすがればおかげを下さるんだと。
あぁいう時にはもう駄目だと思った事が、あぁいう一生懸命のおすがりによっておかげを頂いた。そこに神様を確信する事が出来る。その神様の確信の上に立っての、合楽理念でなからなきゃならんのです。だから合楽理念をマスターしたからと言うてですね、それで、なら真の信心が出来たと言う事じゃないです。真の信心の域に例えば入ったこれからそれを続けて行く事。そこにほんなら合楽理念という事を一口で言うならば、天地日月の心になる事肝要だと言われるのですからね。
天地日月の心とはね、神の心を心とするという事なんです。はぁとても神様の心を自分の心に頂くなんて、大それた事だとても出来そうにもないと、言う様に難しく思わなくてもです。合楽で説くところの合楽理念はね、なそうと思うたら子供でもなせれるほどしの信心。そこに御道の信心のいわゆる、名教たる所以があるのです。ほんならそういう信心を続けながらです。昨日夕べ私がお取次ぎをさせて頂いたようにです。もう神様の前に手を上げるより他にない。いわゆる無条件降伏でです。
そしてただ縋る事のみ縋りに縋り抜かせて頂いて、おかげを頂いて神の確認である。その神様を確認しての合楽理念でなからなきゃいけない。そこに如何に日頃実意丁寧神信心がなされていかなければならないか。なそうと思えば子供でもなせれる様な事を、よかよかでほうからかしておる。そん位のこつは別にそんな事で罰かぶるとは思うてなかった。そんな所からおかげが漏るとは思うてなかった。ところがそうではない。
どんなに素晴らしい信心をさせて頂いても、頂いたおかげをそういうところから、漏らしておった事に気付かせて頂いたのが、今日のまぁ合楽の信心じゃないかと思うです。だから私は今日は皆さんに大きな信心と言う事はです。ただあぁそうだ大きな信心、天下国家の事が祈れるような信心。もちろん祈れる信心にならなきゃいけないけれども、祈っておるから大きな信心と言う事ではない。その中身が果たして有り難い勿体ないで、その有り難い勿体ないが育っておるかどうかと言う事なんです。
だからやっぱり一歩一歩、実意丁寧神信心というものは、続けられて初めて大きな信心に向かう事が出来る。言うならば大海のような信心。ただ口で言えばそれだけの事だけれども。その大海にはもうそれこそ、ありとあらゆる汚いものも、何もかにもがいわゆる清濁相飲むと言うか、様々なものがまぁ流れ込んでくるでしょう。だからそういう汚い物は、俺の所には流れ込ませんぞと。そう言う事は御免だと言うておったんでは、大海の信心にはならんのです。
昨日の御理解の地真水心です。地の真水の心です。それを黙って受けて抜かせて頂いて、実意丁寧神信心でそこを受け抜いていくと言う所にです。大海の様な信心が段々出来て来るのです。そして又その事が如何に有り難い事かという体験が生まれて来るのです。そこをせずして大きな信心は生まれません。合楽理念をマスターして、いわゆる天地日月の心になる事肝要だから天地日月の心になる事、そこに例えばそれが真の信心だと例えば分かっても、分かっただけで真のおかげが頂かれると言う事ではありません。
そこにはやはり信心修行が求められます。その修行を私共がね、それこそ黙って治めるとか、全ての事に御の字をつけてとか、いよいよ成り行きを大切に尊ばせて頂くという生き方を様々な事の中から身に付けて行って、初めて合楽理念を分かって、まぁいうならば真の信心という、目指しに向ってお互いが進んで行っておると言う事になります。今こういう信心をさせて頂いておるが、果たして真の信心の方へ方向が向いておるかどうか。東京行きがしたい、東京行きがしたいと思うておるが。
果たして東京行きの方を向っておるか。ひょっとして鹿児島行きの方でも向っておる様な事はなかろうかと。そして事実鹿児島行きに一生懸命進んで行きよる人も、世の中には信心をする人の中には、いや御道の信奉者の中には、どのくらい沢山あるか分からんのです。ただおかげを頂くから間違いないと言う様な事じゃないと言う事です。今私が言うた内容から分かって貰わなきゃいけません。一心にお縋りすればどう言う事であっても、道が開けると言うのです。
だからそれが真の信心じゃないと言う事。祈ればやっぱりおかげを下さるから、間違いは無かろうと思うて、東京行きせんならんとに、鹿児島の方へとさっさと下って行きよる。今の合楽では、東京行きと言うのはこちら向きだぞと。この汽車に乗らなければいけないぞと教えておる訳です。ですからそんなら間違いなく東京の方へ、向きを変えさせて貰うて、そんならそれで良いと言うのではありません。一歩一歩いわば大海のような信心がそこから募って来る。
一歩一歩一段一段、大きくなっていく信心が求められる訳です。そして初めて大きな信心。いうならば、もうここに立った時にです。迷い信心ではいかんと仰るですね。迷わんですむ自分の生き方は、果たしてこれで本当だろうかとね。不具の念を抱く事が要らん訳です。それこそ「着いて来なされこの提灯に、決して苦労はさせはせんと」いうその提灯を掲げておるのが、今の合楽のあり方だと思うのです。これが教団全体の事ではない、もうあらゆる言うならば、宗教宗派がございますけれども。
こういう絶対の生き方を、しかも私共がそれを願って、本気でやろうと言う気になれば、誰でも頂けれる信心。分からせて貰えれる道を、はっきり明示して頂いておるのが、合楽理念に立脚しての、信心と言う事になります。だから合楽理念をマスターして、それを実行していくと言う事が、取りも直さず、いよいよ大きな信心に向かう、と言う事になるのです。
昨夜のマルショウの感謝の夕べに、マルショウの幹事長を高橋さんがしておられる、そうだと言うのを昨日私は知りました。それでそのう何か挨拶をしてくれと言う事ですが、僕はどう言う事を言うて良いか分からんから、どう言う事を話したら良いでしょうかと。どう言う事を話すと言うても、私はそんな事は知るもんか。あんたが自分で考えて話さじゃこてと言うて、私が申しましたけれどもね。
そう言うておる内に、神様から頂いたのがこんなお歌でした。この宵ね。あの宵ですね。「この宵を、神も手を打ち喜びの、御声妙にく心地して」と言う歌です。例えば昨日の感謝の夕べのその集いをですね。神様も手を打ち鳴らしながら、一緒に喜んでおられる、その妙なる声を聞くようだと言うのです。合楽の方達はまぁ子供どんが歌歌ったり、踊ったりするぐらいな事をと言うてその軽く見ておる。
本当に今の合楽理念をマスターして、それを実行しようとするならば、夕べのいうならばみんな来て貰うたらもうどこか、入るとこなかでしょうばってんね。まぁ昨日でちょうど良かった訳ですけれどもね。実をいうたらどこから合楽理念の実意丁寧神信心、いわゆる天地日月の心と言われる、日月の心に反れる事漏れる事があってはならないと思うならば、あぁいう教会行事に参加しないなんて言う事が、あって良かろう筈がありませんよね。どこから漏れるやら分からん訳です。
あんくらいな事それが今まで、ほんなら今まで合楽で疎かにして来ておったです、なそうと思えば、子供でもなせる様な事を疎かにしてきておった。そこからおかげが漏っておったと言うのですから。しかもほんなら昨夜のその、まぁ子供達の喜びの集いに参加させて頂くと言う事がです、神様も手を打って奉祭しておられるのですからね。合楽の信者信奉者子を持つ親だけではない、みんなもそれに参画させて貰えるような。
私は心の状態こそがです、きな信心を育てていくには、どうでも要るんだと。もうそんな事は無駄だ。馬鹿らしいとただ最短距離だけを狙って、ただ良かとこだけを頂こうとして頂けるはずはありません。合楽の信心を頂きたいならば、合楽の良いところも悪いところも一応は頂いて、そして自分の血に肉にして、そしてこれは頂けんというところは、後で取らなければいけんのです。
良かとこだけ持って帰ろうて言うたって、頂けるはずはないです。そういう言うならば微妙なものなんですよ。いよいよ大きな信心を目指さなければいけません。もう迷わんで済む、はっきりしたいうならば道が、今合楽では練り出されておるのですから、その事をそれこそ水も漏らさん思いで、どんなに大きな信心をしても、漏ったり落ちたりしたんじゃ駄目です。
やはり間違いのない信心が次第に大きくなって行くと言う、おかげでなからにゃいけません。それこそ水も漏らさんおかげを頂きながら、いよいよ大海のような信心に目指させて貰うて、それこそ鯨の棲むようなおかげを受けて行かなければなりません。只いよいよの時に一生懸命にお願いをするそれでおかげを頂く。必ずおかげは頂きましょう一心を持ってお願いをするから。けれどもそれでほんなら真の信心と言う事ではない。間違いのない方向に姿勢を向けての信心。
そしてその内容がです、有り難い言うなら自分で自分の心が拝みたいような心が、育って行かなければならないところに日月の心。いわゆる実意丁寧神信心が求められる訳です。だからねやはりもうその気になって、その事に掛り切らなければいけないです。掛り切らなければならないと言う事は、教会にずっとおらんならんと言う事じゃありません。掛り切らなければならんと言う事は、百姓しながら家庭の御用をさせて頂きながら、その事を祈り思い続けていかなければならんと言う事であります。
どうぞ。